Of the fence

NovelTop | 第三艦橋Top

    生後3ヶ月の赤ん坊なんて、犬猫より始末が悪い。
    産まれた時でも、既にほぼ3キロ。 その後順調に育っているから、尚更に…重い。 まるで、砂袋。 その辺りに転がっている分には、そうとも思わないのに。 抱き抱えようとすると…どうにも抱き上げにくくて、重くて…取り落としそうで。
    数時間ごとには、その大きさに似合わないほどの甲高い、大きな声で泣いてくれて。 何を訴えたいのか、言葉になんてしてくれないから…未だに瞬間は狼狽(うろた)えて。 その度、直前までやっていた事なんて…睡眠さえ放り出して。
「もう…っ、古代君なんて大っ嫌いっ!」
    …何で、こんな時には「古代君」なんだよ…などと思いつつも。

    2回目の結婚記念日の朝、旦那さまは…逃げ出した。

        ◇     ◇     ◇     ◇

「…雪に、追い出されたのか?」
    ちょっと…困ったような、少しばかり不機嫌そうな友人の顔を玄関に見て。 ほぼ考え込む事無く、さら…っと訊き返す島だった。
    言葉のやり取りとしては、雪に「出て行け」…と言われなくも無かったから、無言の仏頂面でつい、それを肯定してしまった古代だ。
    雪のご勘気から逃げ込む…いや、一時避難の先が他に無い訳じゃない。 …が、ここ以外の何処に行っても必要以上に…古代を迎えた側としては至極当然に、だが…あれこれ突っ込まれるのは、必定。
    その意味だけでなら、島の場合は。 古代の方からはっきり言わない限りは、それと無く分かっていても、特に訊ねてなんて来ないから。 だから、こういう場合には知らず考えないまま、相手に島を選んでしまう古代だった。
「まあ…上がれよ」
    この部屋の主人がそう促さなくとも、どうせ勝手に入り込んでくる来客だったが。
「昨日、帰還(かえ)ってきたばかりだから、構わないぞ?」
「良いよ、別に。 連絡して、来た訳じゃないし…」
それでも居間まで辿り着けば、間も無く飲み物の1杯くらいは供されもして。
「仕事してたんだな」
「当たり前だ、帰って来たばかりだと言っただろう? 汚すなよ?」
    そんな事を言いながらでも、拡げ切っていた書類を半分ばかりの面積にまで片付けて、テーブルの上にカップの置き場くらいは譲ってくれて。
「…静かで良いよな、お前の所は」
    何だか、妙にしみじみと独り言(ご)ちる古代に。
「え…?」
呆れたように、島が呟いて返した。
    同じ居間(へや)の中には、もう2人居て。
    そのうちの1人は、何かに抱き付くようにやっと立ち上がっては、1、2歩程度で…転んで。 起き上がっては、また数歩…何かに体当たりして、それを引っ繰り返したりして。
「…何処が、だよ?」

「子供が、泣かない」
    古代が、きっぱり言い切った。
「…あのな…」
島が、呆れて…溜息を吐いた。 …が、古代としては、至って本気で言っていたりする。
    確かに、生後3ヶ月の乳児と、1年を越えた幼児では泣いている時間が違う。 他者への意思表示に泣く事しか出来ないのと、表情・身振り手振り・言葉らしきものが使えるのと…の差だ。
    …と言うより、そもそも。 子供に泣くな、言葉で系統立てて説明しろ…と言う方が、無理な話だ。
    そんな事、古代だって分かっていない訳じゃない。 だが、煩(うるさ)いものは…やっぱり煩い事には変わり無く。
「良いよなあ、お前ん所(ここ)は。 子供が育ってて」
「…おい」
    …そんな、時間の経過だけで解決する事を。 その時間の移ろうのも待たないまま、現在(いま)真剣に言われても…島の方が困る。
「良いも悪いも…こっちは1年も先に生まれてるんだから、当たり前…で、仕方無いことだろう?」
    逆に言えば、時間の関係している事だから、今更どうにも引っ繰り返せる事じゃない。
    何となく…島は、ひどく年の近い「弟」が。 母親に、どうしておにいちゃんを先に産んだの…と詰め寄ってる所に、期せず行き合せたような…そんな感覚に捉われて。
「…無理言うなよ、お前は…」
    思わず…真剣に、心底から溜息を吐いた。

「そうは言うけどさあ…煩いんだよ、実際」
    最早、島が仕事を片付けている所だ…という事を、古代は忘れているようだ。
「そりゃ…煩いは、煩いだろう? 言って黙ってくれる相手じゃ無いからな」
このまま仕事を優先させていると、言葉以外の邪魔が入りそうだと感じて。 島の方も、少しばかり手を休めて、古代の話の方を優先する事にした。
「…新人なら、お前が怒鳴れば黙るけどな」
「…そういう例え方、するなよ。 怒鳴ってばかりいねえよ、俺だって」
    叱(しか)り役を、ヒトに上手い事押し付けてくれてた奴が、何を言ってる。 島の言葉に、古代はちょっとばかり顔をしかめる。
    何で、こいつは余裕が有る…いや、実際はどうだか分からないが、少なくとも余裕が有るようには見えるんだよ…と。 ふと。
    島の方が、1年ばかり早く「父親」になったのは確かだが。 「初めて」なのは、俺も島も同じだろ? それなのに何で、島の方は最初っから「悠然と」父親やってて。 俺の方は…こうなんだよ?
「…何だよ?」
    窮屈そうな、ひどく前屈(まえかが)みに。 古代は、自身の脚の上に肘を、そのまま頬杖を突く格好で。 下の方から見上げてくる視線に、気付いて島がそう問うた。
    その後も、まだほんの少しの無言の後でやっと。
「ああ…そうか。 慣れてるもんな、お前は」
「は?」
ぼそ…っと呟いた古代の言葉に、意味が取れないで島はまた訊き返した。
「お前は『弟が居る』から、慣れてんだよ。 赤ん坊に」
    そう言った後も、自分の言葉にひどく納得がいったように、1人勝手に頷いていて。
「…ちょっと、待てよ…」
得心している様子の古代を前にして、島の方は…いっそ困惑。
「俺…そんな頃の次郎の事なんて、殆ど…憶えてないぞ?」

    島が「兄」になったのは、13歳の夏。 些細な事ならともかく、家族構成の変わるような大きな出来事に、曖昧な記憶しか残せないような年齢じゃない。
「だって、お前…中学生だったんだろ?」
「だから、だよ。 起きてるうちの半分は、家に居ないだろう?」
    …言われてみれば、ごもっとも。
「大体…両親揃っててどうして、まだ子供の俺が真剣に、乳幼児の世話をするんだよ?」
それも、ごもっとも。
    思い返してみれば、古代自身にとっても。 両親の健在(い)るうちの守は、せいぜいが「遊んでくれる相手」であって「世話を焼いてくれる人」では無かった。
「それに…その後、割合すぐに『寮生活』だっただろう?」
「…訓練学校か」
「そうだよ」
    そこまで言って、古代の思い違いに呆れたらしい島は、手にしていた書類をテーブルの上に投げ出した。

        ◇     ◇     ◇     ◇

「もう…仕事片付けるからな? 邪魔するなよ?黙ってろ」
    持ったペンでこちらを指し示して…の、島の厳命に。 古代は、不承不承ながら従って…大人しく。
    量は半分、冷め切ったカップを抱えて、面白くなく。 思いっきり後ろに背を預けた格好で見下ろしてみた島は、本当に…全然古代の方を構ってやろう…なんて気が見えなくて。
    詰まらなさと退屈さの視界の端に、何か…ちら…っと動くものが見えて。 そちらに目をやってみれば、さっきから向こうの方で歩いては転び…を繰り返していたのが、テーブルの角まで、ようやく辿り着いたところで。
    …このくらいまで、歩くくらいにまでなれば、まあ…可愛いかなあ…なんて、古代の思う暇も有らばこそ。 その短い腕を、当人なりに一生懸命に伸ばして。 やっと捕まえた…1枚の書類ごと、思いっきり後ろに引っ繰り返ってくれて。
「う…わ」
    当の本人は、きょとん…とした顔で書類も握ったまま、その場に引っ繰り返ったまま。
    しかし、テーブルの上では抜き取られた、たった1枚の書類に引き摺られて相当枚数の書類が、乾いた音を立てて舞い落ちて。 状況に慌てた古代が不注意に置いたカップから、その中身も少しばかり散らかって。

    隙間を縫って、家事を片付けようとするのは、何処(いずこ)の奥様方も同じ事。
    充分…だと思った距離と、ご機嫌に。 そ…っと立っていったキッチンでテレサは、古代の声と、派手にカップを置く音を聞いて、慌てて。
「済みません…っ」
    取り敢えず、真っ先に抱き抱(かか)えたのは、その場にまだ…転がったままで居たもの。
「…良いよ。 手の届く所でやってた、こっちが悪い」
大丈夫だと思っていた…そんな言い訳も、まだ言い終わらない間に。
    床に舞い落ちた書類を、拾い集めながら。 仕事の中断された事には、軽く…溜息を吐きながらでも。 中断された原因…になるだろう誰も…までは、責める気にはならないから、その気持ちのまま、島はそう言って。
「ほら…返してくれないか?」
    勢い余って、引っ繰り返っても。 テレサの腕に抱き上げられても…まだ、ずっと握り締めている書類の端を押さえて、島が苦笑する。
    間近な笑顔と、書類ごと上下に軽く振られる腕に誤魔化されて。 折角捕まえたものは、あっさりと取り上げられて。 それでも…ご機嫌は良く。
「…済みません」
    思いっきり握り締めた為の、シワは止むを得ないが。 大事な書類が、それ以上に汚れも、破れもしなかった事にほ…っとしながら、テレサがまた…もう一度。
「だから…良いよ?」
    それには、また。 苦笑しながら、島は答えた。

「…びっくりした…」
    そんな騒ぎが有っても、仕事を続けようとする島には内心…感心もしながら。
「…何に、だ?」
    その場所を、リビングの低いテーブルからダイニングテーブルに移動するのに、何となくつられて…ついて行きながら、古代は呟いた。
「いや…あんまり、ばったり転ぶから。 泣かないもんなんだな〜、子供って…」
「まだ、身体が柔らかいからな。 俺たちが思うより、痛くないんだろう?」
    本気で痛い時は、ちゃんと泣くぞ? そうも言われて、なるほどな…な古代。
「俺ん所は、転ばなくても泣くからな〜」
そう言って、ちょっと…軽い溜息。
    …また、いつものように泣き出して。 やっぱり…何を訴えたくて泣いているのか分からなくて、まだ慣れない手付きで抱き上げてしまったまま…途惑って。
    泣き声を聞き付けた雪が、さっきの…テレサのように慌てて部屋に駆け込んで来て。
「ちょっと…返して」
    …返して…って、何だよ? 別に…雪のものを借りたり、盗ったりしてた訳じゃないだろう? 言いながら雪が、この腕から抱き上げるのを…そんな事を思いながら見送って。
    …そう言や、その辺りから既に。 俺は、ちょっと…腹も立てたような気がするし。 雪も…ちょっとばかりは、ご機嫌斜めだった…ような気もするし。
「…手伝おうかな…とか、思ってたんだよなあ…」
「…え? 何か、言ったか?」
    口にしたつもりの無い言葉に、島の問いが返ってきて…ちょっと、うろうろ。
「あ…いや、何でも無い」
一瞬だけ見えた、島の怪訝(けげん)そうな表情に。 喋ってたんだな…と知らされながらも、そ知らぬ顔でそっぽ向いて。
    …で、その結果が。 喧嘩するつもりも無かった雪と、何故だか…このザマで。

「なあ…島? ちょっと…だけ、訊いて良いか?」
    そっちに身を乗り出すように、頬杖を付いて詰まらなさそうな顔のまま、古代が言えば。
「邪魔するな…と、かなり前に言わなかったか?」
それでも島は、書く手を止めて、顔を上げて。
「ちょっとだけ、すぐ終わる」
    言いながら、島の利き手からペンを引き抜いていく、古代の左手を。
「…すぐ、終わらせろよ?」
叩(はた)き落として取り返しながら、島が答えた。

        ◇     ◇     ◇     ◇

    幾ら、雪が看護師で、子供の成長を学問として憶えていようと。 患者やそれ以外…として、実際に子供に接した事が有ろうとも。
「…お前の方が、悪い」
    弟妹を持たずに育って、それが初めての我が子なら。 24時間休み無く、育児に追い廻される経験なんて…初めて、で。 苛立ち高じて、八つ当たりの一つや二つ言いたくなっても、むしろ…当たり前。
「…何だよ」
    全く、理解も想像も出来てない訳じゃない。 それでも…友人だろ? 少しばかりは、俺の肩くらい持てよ。 そんな、ちょっとばかりのわがまま。
「だって…お前も、俺も。 宇宙に『逃げてる』だろう?」
「逃げて…っ」
    逃げてなんか居ない。 そう言い掛けて、途中から言葉に詰まってしまう。 逃げているつもりなんて無い、だけど…。
「逃げてるよ。 航海(それ)が『仕事』だから…って、逆に堂々と。 …だろう?」
…けど、な?
「俺が…乗艦勤務くらいしか能が無い事なんて、雪だって…最初から分かってる、はずだろ?」
「…俺だって、操艦しか能は無いぞ? 最初っから知られてる事だって、同じだ」
    そんな事は、言い訳にならない。 島に、暗に…そう言われている気がして、流石に古代も黙り込んだ。

    斜めに腰掛けた、椅子の背に片肘。 何だか…妙に偉振った格好のままで、古代は。
「…だからって、俺は…地上勤務なんてやだからな」
    ごくごく、たまに…だが。 今までにだって、航海と航海の隙間を縫うようにして、多少の地上勤務が無かった訳じゃない。
    その殆どは、どうしようもなく退屈で、自分の出席なんて無駄…なんじゃないかと思われるような会議と。 訓練学校での、ごく短期の臨時講師で。 黙って座ってるだけ…も苦手なら、他人に上手く説明するのもさほど得意じゃない古代には、どっちも面白く無い事は同じだ。
「それは同じだ、俺も」
    島にも、同じ程度の地上勤務は割り込んでくる。
「だから…地上(ここ)に居る間まで『逃げて』も、良いって事じゃないだろう?」
「…逃げて、は無いだろうが」
    雪に対して、大変だな…とは思っている。 何か出来る事が有るのなら、手伝わなきゃ…くらいの事は充分に考えている。 それまでを頭っから否定されたようで、ちょっと…腹立たしい。
「逃げてるじゃないか。 お前は『空手』で、ここに来ただろう? 子供を何処に…誰の所に、置いてきた?」
    あ…と、島に言われて初めて、今更気付く間抜けさ加減。
「ほら…な? 逃げてるだろう?」
その通りだ…と、言葉に肯定するのも口惜しくて。 無言で、そっぽ向いてみたりして。
    見ようとしていない方向から、古代の耳に島の…溜息混じりの苦笑が聞こえてきた。

「帰る」
「どうぞ?」
    全然関係無い事を思い立ったかのように、派手に音を立てて椅子を後ろに蹴飛ばして立ち上がれば。 あっさりと答えてくれる島の声は、やっぱり…多少の苦笑を含んでいて。
「…お前って、本っ当に可愛くないっ」
「お前は…分かりやすくて、可愛いよ?」
    腹立ち紛れに毒づいてみた言葉にも、しれ…っと微笑いながら返されて。 口惜しさ…に、古代は思いっきりその顔の上に朱を刷(は)いて。
「今更、照れるなよ」
「誰が、だよっ!」
    付いて来て…見送って欲しくなんか無いからこそ、わざわざ床を踏み鳴らすような、足音高く出て来た玄関まで、しっかり…と島は追い掛けてきて。
「雪に、良ろしくな」
わざ…としか思えない事を、一段上から腕組みした格好で…微笑うから。
「う…るさいっ!」
またもう一つ、古代は毒づいて。
    この際、古代には癇に障るだけの苦笑をやっぱり、島は上から投げ落としながら。
「まあ…お前が『出て来る』ようで、良かったんじゃないのか? 雪の方が実家に帰った…とかなら、後が大変だったぞ?」
    そ…れは、そうだったかも。 いや…島の言葉に、思わず納得してる場合じゃなく。
「そうならないように、せいぜい努力しておけよ? お前は」
    誰に腹を立てて、出て行くところだったのか…を思い出しながら。 廊下に出た古代の背中に、そんな声が降って来て。
「…え? お前『は』…?」
言葉の端に、気付いた古代が振り返って…も。 勝手に閉まってくれるドアは、もう…とっくに閉ざされていて。

        ◇     ◇     ◇     ◇

    古代が出て行こうとするのに気付いたから、見送ろう…と慌てて後を追ったのだが間に合わなかった。
「もう…しませんよ?」
    その代わりに…ギリギリ聞こえた島の言葉に、テレサは…苦笑して。
「そう願いたいね、本当に」
答える島の方は、困ったような顔をして…やっぱり苦笑して。
    リビングに戻る事を言葉に…ではなく、手のひらで促しながら。
「…ったく、よりによって…お兄さんの所に逃げ込んだからな。 君は…」
「だって…他に、思い付きませんでしたから」
    この地球上に、縁者の居ないテレサには。 距離的に一番近しくて、島が航海に出るたびにあれやこれやと世話になっている…そこしか、絶え間ない育児から逃げ出す場所なんて思い付くはずが無く。
「もう…お兄さんと、スターシャさんにまとめて怒られるのは、御免だよ…」
    否応無く思い出した状況に、島は疲れたような顔をして…軽い溜息を吐いた。

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Last Update:20050122
Tatsuki Mima