きっかけなんて、いつでも。
本当に、些細な出来事。
そして…その、偶然の積み重ね。
『お帰りなさい』
帰宅を、玄関に出迎えてもらえる。
独り暮らしでさえ無いなら、何て当たり前で…あっさりと通り過ぎて、見逃してもしまいそうな事。
「ああ…そうか…」
朝、一緒にここを出て。
司令本部までの、途中に位置するその場所まで送って行った事を思い出す。
まだ、午後も早い時間。
陽も高く。
迎えに行くにも、いささか早いだろう時間。
普段なら…戻るのを待ちもするけれども、今日は、今は…何となく。
ブリーフケースをその場に置き捨てて「廻れ、右」、帰って来た道をまた引き返す。
自分でも…良く分からない、上手く…説明出来そうにも無いけれども。
何だか、とても。
今すぐに…逢いたい、と思ってしまったから。
その顔が見たい、その声が…聴きたいと思ってしまったから。
◇
◇
◇
◇
官舎(へや)に戻って、ドアを開けて。
一番に…そこから、ブリーフケースを拾うから。
迎えに来てくれた時の「帰りに寄った」という言葉が、言い訳だった…のだと気付いた。
床から拾い上げてまた立ち直した時の、まだ少し俯いたままの横顔が普段より、少しばかり固い…ように感じたが、それも一瞬。
普段にも、あまりそうは話さない人だから。
黙っている…その事だけでは、何も量りようが無くて。
「何か…あったんですか?」
だから、訊ねてみた。
「…何が?」
問いさえすれば、何か返してくれる人だから。
「別に、何も無いけど…どうして?」
あまり…はっきりとまでは笑ってはくれないけれども、それでも薄く優しげには。
「いいえ…何となく、そんな風に見えたので…」
そして…分かり切ったような嘘までを、当たり前のようにも口にして。
騙してくれようとしている間は…気付かない振りも続けて、騙されたままでいよう…とは、いつだったか…にも思った事。
それが正しいのかどうかなんて、自信は無い。
けれども、私に対する悪意の無い事だけは、とても良く分かっているから。
傍に居る事、傍に…居てくれる事。
それ以上を望むのは、きっと…わがままで、贅沢でしかないと思うから。
「…何も無いよ、本当に」
重ねての、嘘。
今度は、もう少しだけ分かりやすく笑ってもくれて。
「ええ…それなら良いんです。
きっと、私の思い過ごしですね」
そんな笑顔に…私も微笑って、騙されてもみる。
こんな「現在(いま)」も、間違いなく幸せだと思うから。
手にしたものを離して、上着を脱ぎ捨てて、身軽になる。
でも…それまで。
何だか…1人でこの部屋に居て、彼女の姿が見えない…という事が堪(たま)らないから。
これ以上…着替える時間さえ、惜しいと感じるから。
あまりに短い時間に今もまだ、ほんの少しぎこちない手付きで、彼女はお茶の支度を終わらせられないでいて。
そこに彼女が居る、それが当たり前のはずなのに…そんな事にとんでもなくほっとしている自分。
少し…いや、かなり…おかしい。
そんな自分の状態を、冷静に…判断している自分も何処かに居て。
それが出来るだけ…いつかよりはまだマシかも知れないと、それさえ判断出来ている自分が…居て。
けれども…止まらない、不安が。
現在(いま)居る「時間」は、まだ憶えている。
それでも、いつかの「過去」が…近くに在るように感じて。
まだ、迷わない。
「…飲みますか?」
今まで積み重ねてきた、日常。
いつものままの彼女の言葉が、まだ聞こえているうちは。
答えが有ろうと無かろうと、彼女はゆっくりとカップを運んでくる。
それぞれの手に一つずつ、2人分のお茶を。
そんな事まで、日常のまま。
そんな…いつものままの彼女の姿が、この目にまだ映っているうちには。
『飲みますか?』
返ってくる言葉を期待しての問いではなく、出来上がりを知らせる、単なる癖…に近い言葉。
おおよそは返答が有っても、何かに気を取られていたりすれば無い事も、しばしば。
それでもカップを手に、その傍に立ってまで、何の言葉も戻ってこなかった事なんて無い。
…今までは。
「…島さん?」
作業や考えに気を取られたまま、寄った事にも気付かずにいる訳では無い。
こんなに…はっきりと、私の顔を見上げているから…きっと。
全く何も言われないまま、ただ…じっと見上げられて。
手にしたカップを、そこに置く事も忘れたまま、途惑ってしまう。
◇
◇
◇
◇
不意に、怖い…と思った。
何故、そう感じたのか…が自分でも分からずに、また途惑う。
手に、まだカップを下げたままだと今更に気付いて。
痛いほどの視線を感じながら、片方ずつ、それをテーブルの上に据えた。
「あの…」
知らぬ仲なら、きっと不躾だと感じてしまうに違いない、こちらを捕らえ続ける眼(め)を。
その場に立ったまま、気付かぬ振りでやり過ごす事も出来なくて、居た堪(たま)れ無さに口を開こうとして。
…思い出した。
今、この目の前に居る人を、最初に…そう感じた時の事を。
僕は…どうすれば良い?
──そんな、優しく問うてくるでは無く。
縺(もつ)れた思考に素直過ぎて、ひどい強さを持って。
どうしたい?君は?
──君は、僕に、何をどうして欲しい?
逆に、そう…訊ねられたように感じたほど。
きっと…今、私が。
ここに居てくれ…と告げれば、即座に頷いてしまうのだろう…と。
仮に、死ね…と言ってしまえば、何の躊躇(ためら)いも無くそうしてしまうのだろう…と。
愛しいと思っていたからこそ、遠去けようとしていた人に。
その生殺与奪を預けられてしまって、怖いと感じない方がおかしい。
中途半端な嘘では、きっと騙せない。
どっち付かずの優しさでは、きっと…護れない。
だから…自らの誓いに反するまでを嘘にして、微笑ってもみせて。
本当を口にしない自分を、疎ましいとも恥ずかしいとも感じないまま。
むしろ、その言葉でこの人を護れるのなら、いっそ…誇らしいとまで思っていられそうなくらいに。
不意に、この腕を捕らえられた。
…痛いほどに。
…きっと、錯覚。
何故なら…この指は間違い無く、そこに在る腕を押さえているから。
「…島さん…?」
途惑いを隠し切れないまま、少し困ったように。
それでも言葉には、こちらに対する気遣いさえ乗せて、そっと覗き込むようにして。
そんな表情と様子を、この目は確かに見ているから。
「…ごめん…」
あまり…意識無く、この口を突いて出る謝罪。
自分の言葉を、自分の耳で聞いてから…それと気付く。
「あの…何を…?」
一層、途惑うその顔。
きっと…何を、何に対して謝っているのか、知れなくて。
…それは。
「ごめん…」
見失ったから…君を、たった…今。
明るくなっていく空に、月がその光を失っていき、ただ中空に浮かぶ白けた円盤と化すように。
君がその輪郭と色彩を失って、室内の空気に溶けていく…錯覚。
誰よりも、君に傍に居て欲しいと思っているはずの自分が。
その君の存在を、自身の錯覚の中に否定してしまって。
だから…その事を、君に。
◇
◇
◇
◇
…変だ。
それは、分かっている。
…けれども、不安が…何処までも膨れ上がっていく。
今見たあの錯覚が、錯覚では終わらないような…そんな気がして。
それを、どうしても振り捨てられなくて。
必ずしも…間違っていない、それも。
傍に居る。
そんな約束も、いつかは必ず破られてしまう…どちらかの、死をもって。
それは覆(くつが)らない。
生命として定められた、その最期だから。
自分が…君より永く、後まで生きてしまうなら。
錯覚に見た事は、錯覚では終わらなくなる…。
…違う。
そんな、いつだか分からぬ先の事では無く。
今。
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Last Update:20040827
Tatsuki Mima