簡単に言えば、何も無い1日だった。
何のトラブルも無く、終業少し前に仕事も無くなってしまって。
気の良い少数が「後はやるから」と言ってくれたのに甘えて、終業時刻の直前には更衣室から出てきたサーシャである。
数分を早く帰ったからと言って、何が変わる訳じゃない。
母親は相変わらず官舎(いえ)に居るだろうし、父親は司令本部(こ)の中だ。
だが、滅多に無い事であるのは確かで、何と無く楽しい気分になるのは実際。
二勤の者は、あらかた出勤して終わった。
これから帰宅(かえ)る日勤の者は、まだ出て来ていない。
そんな人の流れの隙間に、玄関ホールに人の姿は殆ど無い。
同じ場所なのに今まで見た事の無い空間の拡がりに、何となく得したような気分。
外部の者も出入りするから、私服である人を見る事はそれほど珍しくは無い。
第一、更衣室で着替えてきたサーシャだって私服だ。
「…誰かと思った」
島が私服で居るのを見る事も、サーシャには特に珍しくは無い。
ただ…場所が司令本部(ここ)だったから珍しく思っただけだ。
知った顔の横の「見知らぬ顔」に、軽い会釈。
「何してんの?島さん?」
それを受けて、副長が島から離れた。
島の視界の中で、先に航行管理部の方に行っている…とそれを身振りにしてみせて。
それを見送ってから、これこれ…と宙港からの車の中で言い訳したような事を、もう少しだけ分かりやすくサーシャに繰り返せば。
その時の副長を同じような反応を、サーシャもしてみせた。
「そんなに、真面目に仕事してどうするのよ。
まだ、お休みでしょ?」
呆れたように笑うサーシャに、今度は島が問う。
勿論、終業ほぼ丁度の現在(いま)。
既に制服も着替えて玄関(ここ)まで出てきている、その事を。
「良いじゃない、たまには〜」
こっちの答えはろくな説明の無いまま、そんな言葉だけで済まされた。
このまま島と、延々話してると普段と変わりなくなってしまう。
だから、早々に手を振って別れた。
島がどう思ったかどうかなんて、この際どうでも良かった。
その玄関前にも、人の姿は殆ど見えなかった。
これも、あまり見ない風景でちょっと楽しい。
◇
◇
◇
◇
後方から来た車がいきなり横で止まって、道を訊ねられる…というのは良く有る事では無いが、さりとて奇異に思うような事では無い。
助手席側の窓に地図を出されて、えーと…と覗き込むように問われた場所までの道程(みち)を教えようとするような事は。
仕事ももう数年目、見た目だけなら既に成人。
だが、未だ司令本部の玄関先、その敷地内。
いずれ軍に関係した人間しか出入りしないような場所で、一体誰がどれだけ道を問うてくるのか。
そんな事にも思い当たれない辺りが、サーシャの実経験値の無さ…だった。
地図に指し示そうとした腕を、いきなり掴まれて強く引かれる。
助手席側のドアはそのまま、最大に開かれた窓に引きずり込もう…とするように。
今朝にもやっぱり薄々は感じていた「嫌な感じ」は、外から眺められる場所に島と話していた時にも近く感じていた。
やはり、少し苛々とした感じと一緒に。
ああ…そうか、この人だったんだ。
何を、暢気な。
だが、この状態でサーシャはそう思った。
目の前、車の運転席から腕をきつく引く男から、その感覚をものすごく近く、強く感じながら。
どうしよう…と思っている時に、ひどく耳障りな音。
触れるかと思うほど近い所に飛び込んでくるような大きな音に、思わず肩をすくめてしまう。
突き放そう…と窓枠を押さえていた左腕から、力が抜ける。
崩れた均衡に引き込まれないで済んだのは、向こうもその音に腕の力を弛(ゆる)めてしまったから。
結果的に解放されたサーシャが見た「音の正体」は、ようこそ接触しなかった…と思ったほど近く突っ込んできていた1台の車。
「お嬢さんっ!」
ドアを蹴飛ばすような勢いで降りてきたのが南部で、サーシャの方はひどくほ…っとした。
だが、向こうにとってはこの上無く有難くない事だったから。
そのままでは邪魔な前方に突っ込んできた車を一旦下がってかわして、慌しく消えていった。
◇
◇
◇
◇
サーシャと別れてホールの奥、上階に行ってしまっていたエレベーターを待っていた。
そろそろ仕事の後の片付けも終わったんだろう、階段を通して足音も聞こえ始めた。
次に辿り着く箱は、これから帰宅しようとする人を一杯に乗せているかも知れない。
航行管理部も事務職だから、定時を過ぎると下手すればそこに人が見えていても書類提出の受付さえしてもらえない。
先に行ったはずの副長も、間に合ったかどうか…そんな事も考えながら。
ものすごく近い所で、派手な甲高い音。
それが…車が急制動を掛けた時の音だと気付いて。
振り返った時に今度は同じく急発進を掛けた時の、急に回転を上げて高くなるエンジンの音の遠去かっていくらしいを聞いた。
玄関先の数段の下、少しばかりは離れた所に。
勢い良くそのまま突っ込んできたらしい、斜めに止まった車が1台。
その前で、ぺったり座り込んでしまっているのが…。
「…サーシャ!?」
但し、段の上からの島の声に振り仰いだのは、車の横に立っていた南部の方で。
「大丈夫ですよ、怪我とかはしてないはずですから。
ちょっと…気は抜けてるでしょうけど」
そんな無責任らしい事を、さら…っと言って返してきた。
ただ、全く苦笑(わら)ってさえいなかったけれども。
「普段と違う時間に、何で出て来るんですよ?
お嬢さん?」
その表情(かお)のまま、今更やっと思い出したように手を差し出して。
サーシャの方でもまだ青い顔をしていながら、それでやっと自分が座り込んでいる事に気付いたようにその手を捕まえて。
「…何で、司令本部(ここ)に居るのよ?
南部さん…休みでしょ?」
少しばかり前の島との会話を、南部を相手にまた繰り返してみる。
「今日は、相原君が休みだから…ですよ」
「…相原?」
あの後すぐに降りてきていた島も同じように手を貸して、サーシャを立ち上がらせて。
その途中の南部の答えに、意味の全く分からない島の方が問い返す。
「朝も、後ろ歩いてましたよ。俺」
「…って、え…?
送ってくれなくて良い…って言ったじゃない」
「この『事態』に遭って、まだそれを言いますか?」
だが、どちらも島の問いに答えない。
南部の方は、島の問うているを分かっていてわざと答えないまま放ったらかしているかも知れないが。
サーシャの方は、南部との会話に完全に気を取られているんだろう。
「南部?」
「現在(いま)の状況なら、お嬢さんか相原君か…真田さんに聞いて下さいな」
誰に問うているのかを口にして、やっと答えが島の方に戻ってきた。
「…真田さんに?」
立ち上がらせた時から、まだ捉(つか)まれたままだった手を解(ほど)きながら。
「今、俺から説明してるような暇無いですから。
その3人なら、間違い無く分かってます」
そのままサーシャを、島の方に押し付ける。
「ついでに、お嬢さんを参謀の執務室(ところ)まで配達しといて下さい」
いつもだったら、当のサーシャがきっと突っ込んでいるだろう事を言ってのけて。
「ちょっと…電話掛けたい所が有るんですよ」
島が何かまた問おうとしていると気付いていながら、南部はそう言って2人を屋内(なか)の方に追い払った。
◇
◇
◇
◇
…それも、単なる言い訳では無くて。
「…ああ、親父さま?」
事情が分からなくて途惑った表情(かお)を見せながらも、島がサーシャを促して離れたのを見て取ってから携帯を引っ張り出して。
伊達に、追いもせず見送っていた訳じゃない。
「今から言うナンバーの車に載(つ)んでる、管制の認識番号調べて下さいな」
憶えたものが、会話のやり取りに曖昧になってしまわないうちに、訊く事は聞いておきたかったから。
「『南部(うち)』の車ですから、記録も辿りやすいでしょ?」
ナンバーと車体の色と、車種と年式と。
見て分かった事を確実に、2度繰り返した後で。
「5分で分からないなら、縁…切りますよ?」
しっかり弱い所も突付いておく、いい性格だった。
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Last Update:20060417
Tatsuki Mima