「遅いっ」
玄関を開いた瞬間に、その言葉だった。
「…って、お兄さん?
どうしたんです?一体…」
ドアを開けた、その格好のままで問い返す。
忙(せわ)しなくけたたましいドアチャイムに驚かされて、相当に慌てて出て来てこの言い草だ。
実を言えば、島は多分に呆れながらそう口にしていた。
「用が有るから来た…に、決まってるだろうが」
戸口に邪魔している状態の島を脇に押し退(の)けておいて、守は断りもせずに入り込む。
「え…あのっ」
そして、案内も請わずにとっとと上がり込む。
まだ開いたままのドアに、その後を追い掛けるのが少しばかり遅れてしまった。
筒抜けに聞こえてくる玄関でのやり取りに、テレサは既に腰を浮かし掛けていた。
「自分の名前、書けるよな?」
「…え?」
座ってろ…という手振りと同時の、そんないきなりの言葉に。
自分を支えるつもりでテーブルの上に両手を突いたまま、立つも座るも一瞬…忘れてしまった。
改めての手振りに促されて、大人しくまた座ってしまいながら。
「あの…はい、名前くらいなら…」
まだ、そこに立ったままでいる守をひどく見上げて。
途惑いながらも、テレサはそう答えた。
玄関の声がリビングまで聞こえるなら、その逆もその通りだ。
「…何なんです?」
ドアそのものは、放っておいても勝手に閉まってくれるのだが。
閉じたその後ロックする時間の分だけ、どうしても島は遅れて戻ってきた。
「取り敢えず、お前には用事は無いから」
当然のように、島は守に訊いてはみたが。
案の定…と言えば良いのか、あっさりと一刀両断、手の甲に追い払われてしまった。
◇
◇
◇
◇
その習い始めが数年前なのだから、当然と言えばそれも当然だが。
テレサの読み書きは、就学前後の児童と似たようなレベルに留(とど)まっている。
画数の少ないアルファベットと片仮名は、ほぼ問題無い。
しかし…平仮名になると、既に少し怪しい。
漢字になると、もう…少しばかりは読めても書けるものは殆ど無い。
それも、決して上手い…と言えるような文字は書けない。
1人で居るのならそれでは困る事も、大いに有るだろうが。
幸い、その点だけは心配しなくて良かったから、つい…そのままに。
ソファに窮屈に屈み込むのは少し辛いから、その前の低いテーブルとの隙間にぺったり…と座り込んで。
「次、これな?」
ひとつずつ出される紙の上、守にここ…と指し示される箇所をテレサは時間を掛けて埋めていく。
その見た目が、何だか…家庭教師とその生徒みたいだな…と、うっかり思ってしまった島だった。
時代と年齢差を考えれば無かったような気もするが、兄弟でもああいう光景が有ったかな…なんて事も。
「何なんですか、本当に…」
客には茶くらい出せよ…という守の「命令」に、大人しく従って供しながら。
しつこいように自分でも思うが、また繰り返して訊く島だ。
ここまでを一緒に居て、テレサが…もしくはその代わりに島が、何かに記名しなければならないような事態には、あまり出合わないできたから。
「そのうち分かるから、気にするな」
だが、カップを置いたらとっとと向こうに行けよ…とばかりに、また守の手のひらに追われてしまった。
「まあ…良いですけどね」
内緒に運びたいのか、ただ面倒なだけなのか。
どちらなのか知らないが、守が説明を先送りしたがるのもいつもの事だ。
気にはなるが、溜息交じりに今日のところは諦める事にした。
慣れないから書くのに時間が掛かっただけで、その数はそれほど多くは無かったらしい。
諦めた島が、ダイニングテーブルに暇を潰すのも、ほんの少しの間で終わって。
「…ほら、これ仕上げろ」
何処に名を書けば良いのかさえ分からないようなテレサには、至ってご親切に付きっきりで教えた守だが、読めば分かる島には不親切な事この上無い。
突き付けたなり、後はそ知らぬ顔…である。
途中にひとつ、テレサの記名の既に有る書類の表をざっと眺めて。
「え…?
更新有るんですか?」
「良いから、さっさと仕上げろよ」
島のどんな質問にも、今日のところは答える気なんかさらさら無いらしい。
見て、即座に分かったのも当然。
身元保証の書類なら、数年前にも見ている。
ただ…その時には、已む無く全ての記入を島が済ませたが。
書け…と急かされても、ダイニングテーブルに筆記具の備え付けは無い。
立ち上がって、やっと書き終えたまま…だったテレサの手から、ペンを受け取って。
その場、その横で仕上げてしまう。
書き上げた…と告げようかと、顔を上げるよりも先に。
それと気付いた守の方が、さっさと引っ手繰(たく)って取り上げた。
「じゃあな」
そんな言葉を聞いた時には既に、島からは背中しか見えなくなっていた。
ついさっき、普段のままに玄関に鍵を掛けてきた。
だから、慌てて後を追う。
勝手に開けて出て行くような人なら、後からゆっくり鍵を掛け直して事足るのだが。
そして、ほんの少し間に合わなかった島は案の定、さっさと開けろ…と命令されていた。
◇
◇
◇
◇
口の中で小さく、ぶつぶつ…と呟きながら。
守の消えた玄関の方を振り返りながら、島はリビングに戻って来た。
テレサはまだ、ソファとの隙間に座り込んだままだった。
「何だったんですか?」
これを言ったのが他の人間だったら、書いてて訊くな…と答えるところだが。
テレサでは書面を見ても、そこに何が書いてあるかを読めないのだから、それも仕方無い。
「いや…」
自分の見て書き込んだ1枚だけは、どういう書類なのか分かっているのだが。
それ以外の、テレサが見たはずのものがどういう書類なのか…までは分からないから、どう答えれば良いものか。
低いテーブルを膝に少し押しずらすように、立ち上がるのに手を貸しながら。
「言ってた通り、そのうちには分かるんじゃないかな」
…と、それだけを答えておいた。
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Last Update:20051014
Tatsuki Mima