廊下の気配に、慌てて手を止める。
「また、次にな」
その言葉で、用意されたまま待ちくたびれていたお茶の道具はお役御免となった。
時間が無い…と言いながらも、全く慌てる様子の無い人を玄関に見送って。
結局、この間からの事は何だったんだろう…と、テレサはその説明を隣に居る人に求めて見上げた。
「…説明するから、おいで?」
◇
◇
◇
◇
戸籍の事は、意外に簡単に分かってくれた。
テレサという名の女性が、地球の…この住所に生きているという証明だ…と、IDカードを取り出させて教えたら…嬉しそうにしていた。
それに水を注すつもりは無いけれども、今までのようにテレザートの人間ではなく「地球人」として扱われる…という事も、抜かり無く。
あの惑星(ほし)に生きてきたそれまでを、否定されるようなものだが…それで良いのか…と、その意味で。
最初は、どういう意味で言ったのか良く分からなかったようで、少しの間黙って島の顔を見ていたが。
思い出したように、軽く首を横に振って。
「地球(ここ)に、私が居ても良いって事なんですよね?」
…と微笑いながら、そう。
私は地球(ここ)に、居ても良いんだろうか?
色んな事に対してそう考えてきたテレサには、テレザートの人間じゃない…と過去を否定される事の方が、よほど嬉しい事だったから。
結婚・入籍…という言葉の意味は、おおよそ分かっているテレサだ。
数ヶ月前の古代と雪の挙式の時に、島に訊いて説明されたから…である。
もっとも…島の方では、かなり言葉を濁した部分があった。
挙式は周囲の人間に対して、入籍の方は公的に、夫婦になります…と知らせて認めてもらうという事だから。
相手が島でなくともそれの適うはずが無いテレサに対して、相手を違(たが)えればそれも適う島としては…何となく負い目を感じて。
…だから。
「その…変な話だけど」
守に知れたら、またお前は無駄な事を考える…と怒鳴られそうだな、と思いながら。
「もし…君が、俺に愛想を尽かしても。
出て行けば終わった今までと違って、手続きが必要になるって事だけど…それで、良い?」
…何を言ってるんだ、とも自分で思う。
だが、やっぱり…そうと訊ねてしまう自分が居た。
君の好きにして良いよ…と決定を委ねているようで、実は。
そうと決めたのは自分じゃない…と、今からの言い逃れを作っているだけ。
籍の無い、まだ「他人」のままの今なら諦めの付くかも知れない事も。
そうでなくなった後にまで、諦められるという自信は無いから。
「もし」の後に呑み込んだ言葉は、君が…他の誰かを好きになっても。
じ…っと黙って、こちらを見ている時間が永い。
何を考えているのか、他人の心の読めない身にはそれが知れないから、怖い。
「これ…」
テーブルの上に置きっ放しの用紙を、取り上げながら。
「島さんは…男の方は、何処に記名(か)くんですか?」
…と、その表を指差して。
「え…?」
予想外の言葉に途惑いながら。
でも…だから多分、その所為で妙に素直に。
「俺は、えーと…ここ、だけど…?」
視線を用紙の表に走らせて、探し出して、指し示して。
その指先をちょっとの間眺めた後に、テーブルに片手を突きながらテレサは立ち上がった。
…呆気に取られている暇も無い。
「ここで、合ってますよね?」
そう言って示す指先に、やっぱり…上手くないテレサの字。
この間よりも余程、急いで書いたから…尚更に。
簡単なものなら分かる、難しい言葉になると読めない。
だが、それは文字を「形として認識出来ない」という意味ではない。
島が、自分はここ…と指したのと同じ形の文字を探して、自分の書くべき箇所の見当を付けるくらいの事は出来る…という事だ。
「あ…ああ、合ってる…けど」
「じゃあ…これで、もしも…の時には手続きが必要になるんですよね?」
こちらが面白くなく切り出した「もしも」を、テレサはひどく嬉しそうに、にっこりとして微笑うから。
「…まだ、だよ。
俺が書いてないし、提出(だ)してもいないんだから」
そう…苦笑しながら島は、テレサからペンを受け取って。
◇
◇
◇
◇
「…何だよ、これは?」
「見たまんま、花ですが」
「…そうじゃなくて、だな〜」
幾ら何でも、花を花だと分からない守じゃない。
「どういう理由で、どうして執務室(ここ)に持ってくるのか…を訊いてるんだが?」
「入籍のお祝い。
お嬢さんから聞いたんで」
だが、守に怒鳴られるくらいの事は怖くも何ともない南部である。
あっさりと聞き流して、しれ…っとして真顔で返す。
「俺に、花束抱えて持って帰れ…って言うのか?」
「嫌なら、奥方1人お留守番…のご自宅へお届けに参上しますが」
「…却下、だっ」
「でしょ?
だったら、文句言わずに持って帰って下さいな」
そこでやっと苦笑(わら)う南部の腕を、その辺りの書類で叩(はた)いておいてから。
不機嫌そうな表情(かお)のまま守は、仕事には邪魔な花束を脇に寄せた。
「サーシャは…触れ廻ってんのか?」
「…ですねえ。
朝からなら、もう…あらかた広まってるんじゃないんですか?」
ちなみに。
現在は、昼休みなどとっくに通り過ぎた午後である。
朝のうちか昼休みに、真田に教えようと科学局に走ってるだろうから、そっちも…だ。
「…逢ったら、俺の代わりに殴っとけ」
本当に殴ったら、怒鳴り込んでくるくせに…とは思いつつ。
南部は苦笑しながら、はいはい…と口先だけは答えておいた。
「ひとつ、訊いて良いか?」
「はい?何です?」
「そっちは、何処に持って行くつもりだ?」
実を言えば、花束をもうひとつ。
さっきから片手にぶら下げていたままで、守と話していた南部である。
守に問われて思い出したように、持ち上げて。
「これですか?
勿論、島さんの所ですが」
…案の定、サーシャはそっちもしっかり触れ廻っていたらしい。
それにはやれやれ…と内心で溜息、だがそれを目の前の南部には見せないで。
「島は…居ないだろうが、今」
「だから行くんですよ。
そっちの方が島さん、嫌がりますもん」
けらけら…と笑う南部は、確信犯である。
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Last Update:20051014
Tatsuki Mima