最低限の家具と雑貨を揃えても、まだ寒々しさの拭い切れない部屋の中。
それでも、本当に何も無かった時よりはよほど、人の棲む所らしく見えて。
昨日までと、何も変わらず「家」を出て。
特に…最後に何も、持ち出さないまま。
ただ、断りを文字にして残してきた事だけが、昨日までとは違うだけ。
もう、帰らないから。
もう…ここにしか、帰っては来られないから。
あの日の、約束の部屋。
時間に、部屋を出る。
戻って来る君を、迎えに行く為に。
少しばかり時計の針が進んだら、この部屋には2人で…居るから。
それでやっと、この部屋に全てが揃うから。
それからやっと、何もかもが始まっていくから。
傍に居たい、一緒に。
護りたい、今度こそは。
そんな…願いが、やっと叶うから。
◇
◇
◇
◇
どんなに、棲処(すみか)とは成り得ない病院(ところ)でも。
自身の記憶に残るだけでも、二月ばかりを否応無く暮らしてしまえば、それなりに見慣れてしまって。
退院に、そこから去らねばならない事は、何となく…淋しくもあって。
「ん。
なーんにも異状無しじゃな」
予定通りに退院出来ると、回診時に佐渡から改めて言われて、少なからずほっとする。
安定を保っていたからこその退院許可だったが、万に一つ体調を崩してしまってそれを診付(みつ)けられれば、簡単に取り消されてしまう。
そうならなかった事に対する、素直な安堵。
だって…それを「迎えに来」てくれる人が、居るから。
その人に、不必要な心配をさせないで済む。
そんな簡単な事さえ、自分は…出来ないような、そんな気がして仕方無かったから。
「午前中…って言っとったから、島ももうすぐ来るじゃろ。
それまで、のんびり座っとったらええ」
診ている時の真剣な顔なんて、何処かに仕舞い込んで笑いながら、佐渡が言う。
「…はい」
押し付けの無い、緊張感の殺(そ)がれる…萎縮の解かれてしまうその言動に、今まで救われてもきたから。
「有難うございます」
それに対しての、今までの感謝を。
「あ?
ああ、気にせんでええ。
退院してしまうまでは、ここも『あんたの部屋』じゃからな」
生憎と佐渡は、違う意味に取ってしまったようだったが。
「ああ…良かった。
まだ、居ましたね」
待ち人か…と思ったドアの開く音は、残念ながらそうではなかった。
「別の患者さんを診ている間に、佐渡先生に置いて行かれたんですよ。
回診に一緒させてくれって言ってあったのに、ひどいですよね?」
それでも、そう言って苦笑する人は。
決して、室内に招く事を拒否したいと思うような相手ではなかった。
佐渡が航海に出ている間…ここで、島の姿をもう一度目にする事だけを願っていた頃。
主治医として、ほぼ毎日顔を合わせていた医師だから。
「実を言うと、ね…僕も、興味から…なんですよ。
貴方の主治医を引き受けたのは」
一通りの、在り来たりな退院を喜ぶ言葉の後に。
申し訳無さそうな顔に、無理矢理に苦笑を乗せながら…そう言った。
「その…貴方が『地球人では無いから』…ですね」
そこまでを言って、済みません…と頭を下げた。
自分は、この地球(ほし)に生まれた人間ではない。
その事に関して、嫌な記憶が在る。
…けれども。
その事を同じように今、目の前に突き付けられていながら、あの時のほどには…嫌悪も恐怖も感じない。
それは…多分、悪意も狂気も感じないから。
「…医者って、馬鹿みたいなもんで…珍しい症例とかに行き当たると、喜んでしまうんですよね」
つまりは、知的好奇心。
純粋に、学術的な興味。
医師である以上、患者の快癒を望んでいない訳では決して無いのだが。
時々は、そんなものが「治してあげたい」という気持ちを、簡単に凌駕する。
「それを…どうしても、謝っておきたくて。
それから…有難う」
貴方が、地球人では無かった事に…謝罪と感謝を。
矛盾してしまうはずのどちらも、本当の気持ち。
その真面目さが、何となく…分かってしまうから。
「…いいえ」
ここにも、こんなに優しい人が居る。
病室に辿り着いた時、退院するテレサの方の用意は疾(と)うに終わっていた。
…と言っても、元々身一つ。
特に、何を持っている訳でもなく、病衣を着替えるだけの事。
終わっていて当然と言えば、当然。
女性の服など、何をどう選べば良いのか分からなくて、雪に頼んだのは、ついこの間。
延々、あちらの店、こちらの売り場…と付き合わされて。
その日の最後の目的地が、この病室で。
雪にしてみれば、テレサが自分で選んだ訳ではない衣装を、自分のものなのだと見憶えさせる為…と。
「これが、良いんじゃないかしら?
締め付けないし、楽だと思うわ」
そう遠くは無い退院の日の為に、その中から一着置いていく事が目的だったらしい。
「おかしく…無いですか?」
その時には、実際に着替えてみた訳ではない。
初めて袖を通す服に、その着方からして途惑うのも当たり前。
「いや…全然、おかしくなんて…」
ありふれた、セミタイトなシルエットのワンピース。
雪が、わざとそう選んだのか、見慣れたあのドレスと同じ色。
意識の中では、さして珍しくも無いはずの格好に、それが彼女だと言うだけで…うっかりと見とれてしまっている自分が、この際ひどく口惜しいくらいに。
どちらからとも言えない、少しの無言。
「…帰ろうか?」
行こう…では無く、帰ろうと。
それでも、言い切れずにわずかに訊ねてしまって。
「…はい」
拒否ではなく、肯定を。
それでも、即座にはっきりとは答えられないで。
◇
◇
◇
◇
陽射しに充分な暖かさを感じても、吹く風はまだ冷たい。
雪は周到に、そんな為にコートもしっかり置いていっていたから。
風の冷たさにテレサが、凍えてしまうような事は無かったが。
いつかのようには、その歩みに不安を感じなくとも。
距離を長い時間歩くのは、随分と久し振りになる…訳で。
やっぱり、誰かに車を借りれば良かったかな…と、今更。
ただ、借りる宛てが無かっただけ。
それに付いては何も言わないだろう守は、忙しさにかまけて未だ購入に至らず。
あまり追及して来ないだろう古代は、しばらく前から地上には居なくて。
それ以外を考えに入れなかったのは、騒々しくしたくなかったから。
感傷でしかない…のだろうが、この「最初の日」を騒がせたくなかったから。
中央病院から、官舎(いえ)まで。
歩いても、島にとっては大した距離じゃない。
だが、久しく病床に在った女性(ひと)には、十二分に疲労を誘う距離。
自分ではない人とは、これほどまでに歩調が違うのか…と思い知らされる。
島に当たり前の速度で歩いてしまえば、テレサを置き去りにしてしまう。
彼女の歩みに合わせれば、逆に…疲れてもしまうほどに。
先に急ぐ事ばかりを、今まで知らずのうちに強要されてきたから。
いつの間にか、そんな速度が至極当然となっていた事に、今更。
急ぐ必要なんて無い、やっと2人で歩き始めたばかりなのだから。
…急がない。
隣に在る人が、そのまま一緒に歩いて居てくれる限りは。
途中、大した会話も無いまま。
時刻はすっかり午後になってしまって、やっとの帰宅。
出た時にはまだ、白々しかった空気が。
2人で戻った途端に、そう感じられなくなる不可思議。
案外と、いい加減な人間の心の動き。
それらしい調度の室内を、初めて見るテレサは。
それが過不足の有るものなのかさえ、今は判断も付かなくて。
ただ、少しばかり物珍しげに見渡して。
途中、仕入れてきたもので、ひどく簡単な昼食を。
…2人で。
まるで、ままごとのような他愛無さ。
そんな詰まらない事に、在り得ないくらいに嬉しがってしまう、口惜しいくらいに…正直な自分の気持ち。
2人で、一緒に。
それはきっと、そんな…一番最初に願うだろう、そんな…簡単な事さえ。
望む暇さえ無かった、今まで自分たちの横を流れていった時間の所為。
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Last Update:20040806
Tatsuki Mima